蒼い手

 


その日は(救命)センターにしては落ち着いた日だった。

交通外傷が何件か搬入されたものの
どれも入院になるようなものではなく
傷の処置をすれば帰って問題のないケースばかりであった。
 


「たまにはこんな日が無くっちゃね・・」

溜まっていた書類整理が一段落つき
そうつぶやいた瞬間
周囲から射るような視線が飛んできた。

「あ〜〜あ・・・」
「言ってもうた」
「口が裂けても言ってはならないことを!!」

「??」

「ここにはジンクスがあってね、
今、おまえが言った様なことを口にすると必ず
とんでもない患者が搬送されてて来るのよ」
「頭の中でそう思っていても
絶対に口に出しちゃ駄目なんだよ」

はたして、先輩Drばかりか
気の荒いことで有名なセンターナース達に
忙しくなったらおまえの為だと攻められている最中に
ホットラインが鳴った。

「責任取っておまえが担当ね」

今夜のチーフはそう言うと
消防庁からのホットラインの受話器を取った。


まもなく搬送されてきた患者は
車にはね飛ばされた中年男性だった。

表だった外傷は軽いものの、
意識レベルは悪く、血圧も測定出来ないほどに低かった。

その原因は緊急で行ったCTですぐに判った。

CTのモニターに現れた肝臓は
まっぷたつに裂け
多量の出血が認められた。



「中験(中央検査室)にクロス(輸血用血液適合検査)出して、
オペ室(手術室)に、開腹、肝部分切除、連絡」

それまでの澱んだような空気が一転して
凛と張りつめた快い緊張感に満ちたものに変わった。

必要なときに自分が何をするべきか心得ている
プロ達の動きには無駄がなく
一旦そのシステムが動き出すと
瞬く間にすべての準備が整った。



思わぬ一言で担当になった私は
ストレッチャーの上に蒼ざめた顔で横たわる患者に付き添い
気が強いことでは定評があるセンターの看護婦と共に
オペ室内に直行するエレベータに乗り込んだ。



「・・・帰室は日勤帯になりますか?」
「どうだろうね、ダメージがどの位あるか開けてみないことにはね・・・」

「・・・先生も気の毒に」
「・・・単なる独り言だったんだけどね・・・
まあ、外傷はわりと好きだから、構わないけど」

「・・・ペナルティーのこと聞かなかったんですか?」
「ペナルティー?」
「そう、仕事を招き入れた人への罰」
「えっ?聞いてないけど、どんな罰?」
「・・・その場にいた人全員御招待のおごり」

「ウソだろう!!この薄給にそれは酷すぎる!!」
「どうせ家にも帰れない生活だしお金の使い道もないんでしょう。
それに全員そろって宴会なんて不可能だから
いつもみんなにお昼をおごるくらいですよ」
「・・・それにしても・・・」

思わず出た独り言とはいえ
迂闊に口を滑らすのではなかったと
真剣に後悔し始めたとき、
エレベーターが手術室のフロアーに着き
音もなくその扉が開いた。


向こうに広がる夜の手術室は妙に静かだった。

「今晩はうちの貸しきりかな?」
「馬鹿なこと言ってないでストレッチャー出すのを手伝って!!」
「はい、はい、引っ張ればいいですね」
「無駄口たたかずにしっかり力を入れて!」

エレベーターのドアの方にたっていた私は
ストレッチャーの端をつかむと軽く引いた。
軽く動くはずのそれから返ってきた手応えは
岩のような重さだった。


「おい、ストレッチャーのロックがかかったままだぜ」
「・・ちゃんとロックははずしました。
先生こそストレッチャーを押してなんていないですよね」
「これからオペで何時間も立ちっぱなしだというのに
そんな無駄な体力を使うか。
そっちこそ引っ張ってるんじゃないの?」

私はもう一度思いっきり力を入れて引っ張ってみた。
しかし、ストレッチャーはやはりびくとも動かなかった。

そうしているうちに
エレベーターの扉が静かに閉じた。


再び扉の閉じたエレベータのなかは
周りの壁に音が吸い取られているような静けさだった。

「・・・閉まっちゃったよ・・・」
「・・・見れば判ります・・・」

狭いエレベーターのなかで話しているにもかかわらず
彼女の声はどこか遠くからのものように聞こえた。

私はドアの『開く』ボタンを押した。

扉は再び開き
そこには先ほどより少し照明が暗くなったように見える
手術室が静かに広がっていた。


「・・・・何だか変な雰囲気しません?」
「・・何を言ってるの・・・気のせいだよ・・」

そう答えたものの
私自身、忍び寄る理由のない不安感を拭いきれなかった。

「とにかくストレッチャーを出そう」
「そうですね、早くオペ室に搬入しないと」

私はもう一度渾身の力を込めてストレッチャーを引っ張った。
そして、彼女が必死にストレッチャーを押していることを背中で感じた。

しかし、それはやはりぴくりとも動かなかった。

「・・・だめだ・・・どうして・・・」
「・・ストレッチャーの車輪に何か絡まっているのかしら」

彼女はそう言うとストレッチャーの下を覗き込んだ。

次の瞬間、
弾かれたように後ろに飛び退いた彼女が
激しい音を立ててエレベーターの壁にぶつかった。


「どうしたんだ!?」

激しくぶつかったにもかかわらず痛そうなそぶりすら見せない彼女は
エレベーターの後ろの壁の一点から目線をはずさないでいた。
そしてその顔は
隣りに横たわる患者の顔に引けを取らないほど
蒼ざめていた。

そして、その目を壁の方から全く逸らさないまま
じわじわと後ずさりながら私の方に近づいてきた。

それはまるで目線をはずすと途端に襲いかかってくる 動物から
逃れるようとする姿だった。

「一体どうしたんだ?」

私はもう一度彼女に尋ねたが
やはり無言のまま下がり続けやがて私にぶつかった。

私は後ろから彼女の肩に手を添え
その体を横にずらしながら彼女の前に回り込んだ。

そして、それまで彼女の陰で見えなかった
エレベーターの後ろの壁が見えた。

私は彼女の目線を追い、その先に目をやった。


“それ”を見た瞬間、
私は直前の彼女と同じように
思わず後ろに飛び退いた。

そして、後ろに立っていた彼女にぶつかると
二人とも尻餅をつくように床に座り込んだ。

その位置からは“それ”を更にはっきり見ることが出来た。

“それ”は一本の筋張った“蒼い手”だった。

その手はまるで壁から生えたようにつきだし
あたかも自分のものだということを言い張っているように
ストレッチャーの足の一本をしっかりと握りしめていた。


固まったようにその蒼い手を見ていた私に
低く呟くような声が聞こえた。
最初判らなかった声の出所は
ストレッチャーに横たわる彼の口だった。

その呟きは何を言っているか
初めのうちはまるで聞き取れなかった。
が、
呟き声は徐々に大きくり
やがてはっきりと聞き取れた。

「・・・置いて・・いけ・・・」


その声を聞いた途端に
それまでの麻痺したような現実との距離感が消え
底知れぬ恐怖感が襲いかかってきた。

私は声にならない叫び声を上げると
四つんばいのまま
いうことをきこうとしない手足を必死に動かし
エレベーターの外に這い出ようとした。

私の目の前にはやはり四つんばいになった彼女が
必死にエレベーターの外を目指していた。


やっとのことエレベーターの外にでると
待っていたかのように扉が閉じた。

私たちは全身の痙攣するような震えを押さえ込むように
しがみつきあっていたが
その震えは決して小さくなることはなかった。


どの位の時間が経ったのだろうか
やがて、再び、
私たちの目の前でエレベーターの扉が開いた。

そして、
誰かにそっと押し出されたように
ストレッチャーが私たちの方に向かって転がってきた。

お互いに支え合いながら
どうにか立ち上がった私たちが見たものは

すでに息を引き取った亡骸と
何かをつかむように毛布から突き出された
一本の蒼い手だった。