落下


 

どこの病院にも
曰く付きの部屋の一つや二つは必ずある。

例えば
誰もいないはずなのに
夜中、ナースコールが鳴ったり
壁から視線を感じたり。

しかし、
そのほとんどは
単なる勘違いや見間違いである。


「・・・悪いけど今日**病院に当直に行ってくれないか」

朝、医局でコーヒーを飲んでいると
遅刻ギリギリで入ってきた先輩が
開口一番そういった。

「寝当直で楽勝だし懐具合を考えると
本当は行きたいんだけどな。
昨日のオペ患の状態が今いち安定してないから
病棟から離れるわけにゃいかんのよ」
「・・・・いいすよ、今日はオペもないし
拘束もかかってないし。
でも先生、**病院って何時入りなんですか?
当直セットを持って来ていないから
一旦家に帰って取って来なきゃいけないんですけど」
「大丈夫だよ、入りは七時だから。
大学を五時半に出れば 寄り道する時間は十分あるよ。
向こうに着いたら受付にいって
当直にきましたといえば当直室に案内してくれるし
後は、消灯前に病棟をぐるっと回って
何か異常がないか尋ねるだけでいいよ」


医局にはいくつかの不文律があった。
その中の一つが
手術と当直は最優先 
である。

大学の医者の大半は給料をもらっていない。

医局の規模にもよるが
大学で給料をもらっている医者は
教授1人、助教授1〜2人、講師1〜3人、有給助手2〜5人。
つまり
多くても10人くらい
少なければ3〜5人くらいしか給料をもらっていず
その他大勢はタダ働きなのである。

そのため、生活のためにも
週1回よその病院での日勤と当直が
権利として認められている。

これらの外勤は医局が各病院から引き受け
個人に振り当てているものもあれば
自分のコネでさがして来たものもあった。
そうした個人的なコネの仕事も
将来医局公式に受け継がれるケースがあったので
医局が引き受けた仕事と同等の
扱いを受けていた。

これらの外勤の仕事は医局員を食べさせていくためには
必要不可欠のものであり
医局としても穴をあけ
先方の病院に迷惑をかけることは
絶対にあってはならない事態であった。

そのため
当直は絶対的な最優先項目であり
教授のお説教の最中に
「すみませんが今から当直なので失礼します」
と言い放ち
「・・・そうか・・・・御苦労・・・・・・」
と、教授に言わしめ
伝説を作ったものもいた。


**病院は大学から車で40分程度のところにある
100床程度の個人病院だった。

田舎のちょっと大きめの病院らしく
内科、外科、整形外科を中心に
目と耳とお産以外は
取りあえず何でも診るような病院だった。

その代わりに見切りは早く、
少しでも手におえそうにない症例は
すぐに大学に送っていたために
病棟に重傷の入院患者はほとんどいなかった。

そのため、 当直といっても
ただ当直室に泊まりに行くようなもので
法律上いなければならない当直医として
名目上ただそこに存在するだけの仕事であった。


その日**病院に着いた私は
当直の際のいつもの習慣通り
3つあるナースステーションにすぐに足を運んだ。

私はどの当直先にいっても
できるだけ早くナースステーションに行き
重傷患者などがいないかを確認するようにしていた。

そうすることによって
万が一病棟に急変がおこった時

病棟に向かうまでに何をすべきか考える時間ができ
実際ことに当たるにあたって
精神的にも実際的にもゆとりを持つことができた。

しかし、 案の定、**病院は
そういった手間をかける必要がない程に
落ち着いていた。

一通り病棟の状況を把握した私は
すぐに当直室に引きこもった。


当直室には夕飯が用意してあり
いつでも食べることができる状態だった。

当直先の人気不人気の基準は
いくつかあるが
おおむね3つの要素に集約される。

忙しいかどうか。
バイト料はどのくらいか。
そして、夕飯は美味しいかどうか。

誰しも
暇でバイト料がいい方がいいに決まっている。
しかし、そう都合のいい話は無いことは
みんな承知しているので
忙しくバイト料がいい方か
暇でバイト料が安い方か
どちらかを選択することになる。

そんな時大きな選択基準になるのが
夕飯が美味しいことである。
夕飯が美味しければ
多少バイト料が安くても諦めが着くが
夕飯が不味いと
翌朝コンビニによるまで
不平の炎が燻り続けることにる。


可も無く不可も無い夕飯を食べ終えると
横で何やら喋っているテレビをBGMに
何をするとも無くボーっとして過ごした。

患者に、手術に、
時間に追われる生活を送っている身にとって
何も考えず頭を真っ白にして過ごす時間は
数年ぶりの至福の一時だった。

座禅を組んだような
無の境地を数時間過ごした後
到着時と共に習慣にしている
就眠前の病棟確認、別名御用聞きに出かけた。


**病院は1階に外来が
2階に手術室や検査室があり
そして病棟は3階、4階、5階にあった。

私は3階のナースステーションから順に
就寝前の異常確認を行った。

たったこれだけのことだが
夜中に安眠を妨げられるか
朝、気分よく起きることができるか
大きな差が出る
経験で学んだ生活の知恵だった。


3階のナースステーションに着き
中を覗くと
比較的若そうな看護婦が二人、
患者の体温などを記録する検温版に向かって
半分眠りそうになりながら
準夜帯の記録を行っている最中だった。

「何か問題はありませんか?」
そう声をかけると
二人ともいっぺんに眠気が覚めた様子で
顔を見合わせ異口同音にいった。
「イエ、特に異常はなく全員落ち着いています」

その答えを聞くと私は4階へ向かった。


**病院もほかの病院の例に漏れず
4階という名称はなかった。

(通称)5階のナースステーションも
3階と似たような光景が展開されており
また同じような会話か繰り返された。


次は最終チェックポイントの(通称)6階だった。

5階から6階への階段を上がっていくと
6階はほかの二病棟に比べると
ひときわ静まりかえった感じがした。
決して前の二つの病棟がざわついていたということではなく
むしろこの6階の方が妙に静かで
何か病棟全体がそっと息を潜めているような感じだった。

6階のナースステーションへいくと
比較的若そうな看護婦と中年がかった看護婦とが
真剣な面持ちでなにやら小声で話をしていた。

「どうかしました?」
驚かないようにある程度近づいた後に
そっと声をかけたのだったが
それでも彼女らはイスをはね飛ばし瞬間的に立ち上がった。

「申し訳ない、驚かすつもりはなかったんだけど」
そういう私の顔を見る二人の表情は
一瞬のうちに驚きから安堵感のものへと変わった。


「ちょうどお電話しようか相談していたところなのです」
若い方の看護婦がいった。

「605号の患者さんなんですけど・・・・」
年嵩の方の看護婦がそう言いかけると
若い方の看護婦がやや強引に後を引き取って続けた。

「80歳の女性で気管支炎で入院されている方なのですけど
病室の窓から人が落ちるのを見たと
先ほどこちらに興奮して来られたんです。
私たちもお部屋の方にいって窓の下を見たのですけど
窓の下には誰もいませんでしたので
ご本人にそういったのですけど
間違いなく自分は見たとおっしゃって。
ご高齢ですけど普段ははっきりした方で
今まで夜間せん妄や徘徊はなかった方ですし
今回もそういった感じではないのですが」

要領よくそう報告した彼女ではあったが
何かまだいい足りないかのような表情を浮かべていた。

続きを話すように視線を送ると彼女は続けた。

「・・・実は・・・・・私たちがお部屋に行ったとき、
私も何かを見たような気がするんです」
「何か?」
「はっきり見たというわけではないのですが
窓の外で何かが落ちたように見えたんです」
「・・・でもあなた達が部屋に行ったのはその患者さんが
人が落ちるのを見たといって来たので
確認のために行ったのでしょう。
そのときにまた何かが落ちるのを見たということは
同じ日に同じところから2度、
何かが落ちたということになりますね・・・・」
「・・・・ええ、変な話だということはわかっています。
それに何かが落ちたような気がした後
窓の外を見ても何も落ちていなかったんですし」

私はもう一人の看護婦に尋ねた。
「あなたは何か見たの」
「イエ、私も窓の方を見ていたんですけど
別に何も見ませんでした。
たぶんこの娘の気のせいだと思うんですけどね・・」

この話題にすでに飽き飽きしているらしい
年嵩の看護婦がそう答えるのを横目に
私は若い方の看護婦に尋ねた。
「で、その患者さんは?」
「今そのお部屋の方に」
「・・・それじゃ、ちょっとその患者さんの様子を見に行きましょうか」


その部屋、605号室は廊下の端にある3人部屋だった。
ナースステーションを無人にするわけには行かなかったので
私は若い方の看護婦と一緒に廊下を奥へ進んだ。

病室のドアは異常がないか確認しやすいように
開け放してあった。

彼女は身に付いたプロの習性か
それぞれの部屋の前を通る度に軽く視線を向けていた。

廊下に明かりはあったが消灯時間になっており
光量は落としてあった。
そのせいか明るいナースステーションから離れるに従い
空気が重くまとわりつくように感じられるようになった。


605号室のドアもやはり開け放してあった。

その前に着くと囁くように彼女は言った。
「本当でしたら窓際のベッドなんですけど
窓際はもう嫌だということですし
丁度ほかの2床も空いていたので
一番手前のベッドに移動していただいています」

私は軽く頷くと中に入った。


部屋の中に入ると 奥二つのベッドの周りのカーテンは
開け放してあったが
一番手前のベッド周りと窓のカーテンは
しっかりと閉じてあった。

「●●さん、大丈夫ですか?
当直の先生がいらっしゃったんですけど
具合はいかがですか・・・・・
・・・・・・カーテンを開けますよ」
彼女はそう声をかけると
ベッドを取り囲んでいたカーテンをそっと引いた。

ベッドの上にはこんもりと盛り上がった布団の山があり
その中かからくぐもった声がかすかに聞こえてきた。

「●●さん、大丈夫ですか?」
彼女は再びそう声をかけながら
今度は布団の片端をそっとめくった。

中から聞こえてくる声は多少はっきりとしたが
それでも尚、
何を言っているかほとんど聞き取れなかった。

さらに布団をめくり現れた顔は
渾身の力で目が閉じてあった。
「●●さん・・・」
そっと声をかけてもその瞼はゆるまず
口元から呟き声が漏れていた。

お経でも唱えているのだろうか
そう思い私はその口元に耳を寄せてみた。
「・・・・・・・・・」

最初は単なる音にしか聞こえなかったが
しばらく聞いているうちに何を言っているか徐々に判り始めた。
「・・お・・る、お・ち・、お・ち・る・おちる、落ちる、
落ちる。落ちる。落ちる。落ちる・・・・・」
ひたすらにそう呟いているだけだった。

私が後ろを振り返り目が合うと
彼女は2、3度軽く首を横に振った。


めくった布団を元に戻すと私は窓に近寄った。

どこにでもあるようなカーテンをそっと開けると
窓の外には澱んだような暗闇が広がっていた。

ほかの病室などから漏れる灯りはなく、
唯一目に入る光は
自身がいる部屋から漏れる光だけであった。

それでもかろうじて1階部分の地面の様子は見てとれた。

そこには、
塵一つ、落ちているものはなく
うす茶色に乾ききった地面が
見えるだけであった。


「・・・何も落ちていないな・・・」
下をのぞき込みながら私は呟いた。

その時、
何気なく振り向き
上を見上げた私に向かって

落ちてくるそれがあった。


それは恐怖にみちた『顔』だった。


「ぶつかる!!」

瞼を閉じる時間もなかった。

次の瞬間、
私が感じたのは衝突の衝撃でも
痛みでもなかった。

恐怖感だった。

それは、
迫りくる地面に対しての、
落ちることへの

純粋な恐怖感だった。

それが突き抜ける瞬間
恐怖感と共に次の言葉の繰り返しだけが
頭の中にこだました。

『落ちる、落ちる、落ちる、落ちる、落ちる・・・・・・』


絶対的な恐怖が通り過ぎた後

開いたままの瞼の前には
屋上までつながる建物の壁と
その向こうに
漆黒の闇が広がっていた。

惹かれるように振り返り
焦点の定まらない目に見えたものは

やはり何一つ落ちていない
うす茶色の乾いた地面だけだった。


「・・・だ・・じょ・・・すか、
・いじょ・・で・・ 」

遙か遠くから誰かが呼びかける声が聞こえる。

呆然と窓の下を見ていた私は
襟首をグイッと後ろに引っ張られ
部屋の中に引き戻されると同時に
意識も現実世界に戻った。


「先生、大丈夫ですか?」
「首が絞まって窒息しそうだけど
そのほかは大丈夫だよ」

彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべたが
すぐにその顔は真っ赤に紅潮し
私の襟首をつかんでいた手を離した。

「・・・・すみません・・・
何かぶつかったショックで意識を失って
落ちてしまうかと思ったもので・・・・・」
「・・・謝る必要はないよ。
意識を失ったというのは
ある意味はずれじゃないし・・・・・
ただ、何かがぶつかった訳じゃないよ」
「いったい何が起こったんですか?」

私は窓際からゆっくりと離れながら訊ねた。
「後ろから見ていて何が起こったように見えた?」

「最初は、何かが落ちてきて
先生の頭に当たったと思ったんです。
でも、
実際には 落ちてきた何かは
先生の頭をすり抜けたような気がするんです」
「うん、正解」
「いったい、あれは何なんです?」

私たちはその部屋の入り口に近づいた。
一番手前のベッドでは
相変わらず布団の山の中から呟き声が漏れていた。
私は歩みを止め
その布団の山を横目で見ながら言った。

「・・・はっきりとしたことは判らないけど
たぶん、
強い感情・・・じゃないかな」
「強い感情?」
「・・・・あれが頭の中を通過する瞬間
まるで自分が 実際に真っ逆様に落ちて行く
恐怖を感じたんだ。
そして、迫ってくる地面も見えた。
本当に一瞬だったけど・・・・」
「それが落ちてきたものの持っていた感情というのですか?」
彼女は真剣な面持ちで訊ねた。

「・・いや、そうじゃない。
それが持っていた感情というんじゃなくて
その感情自体、恐怖感自体が
落ちてきたと言うべきかな。
もし、『恐怖感を持った何か』が落ちてきたんだとしたなら
それ以外の意識、
たとえば
自分が誰だとか、
男か女かとか、

落ちた瞬間の想いとか、
生への執着や、
今まで生きてきた何らかの記憶の断片とかが
少しはあると思うんだ。
でも、あれの中にはそうしたものは全くなかった。
純粋に落ちることへの恐怖感しかなかった。

たぶん落ちた瞬間
そうしたほかの感情のすべてが消し飛んで
落下に対する純粋な恐怖感だけが残ったんだろうね。
そして、
純粋な恐怖感だけの存在になったが為に
それに囚われ
何度も何度も落下を繰り返し続けている・・・・・」

荒唐無稽な話ではあったが
話しているうちに
それが真実であることが次第に判ってきた。
そして、
それを聞いた彼女も何の疑いもなく
それが真実だと言うことを納得していた。

「・・一つ疑問があるんです。
なぜ、あれは今日に限って落ちてくるんでしょうか?」
「・・・・・今日に限って落ちている訳じゃないよ。
ただ、今日それを感じることができる人間が
いたというだけの話さ。

・・・・・・あれが最初にいつ落ちのかは判らない。
でも、あれが落ち始めた瞬間から
今までずっと繰り返し落ち続けているんだよ」
「・・・そんな・・・・・」
彼女は一瞬目に涙を浮かべたように見えた。

「助けてあげることってできないんでしょうか?」
「・・・・我々は、傍観者にしかなれないんだ。
最後の瞬間、
患者を為すすべもなく見送るように・・・」

最後にそういい部屋を出ようとしたとき、
振り返った私の目にまた落ちてきたそれが写った。
一瞬、止まって見えたそれは
恐怖と悲しみの表情を浮かべていたように思えた。